2024/02/07
家康を支えた徳川家臣団の城 家康を支えた徳川家臣団の城 第11回 館林城
江戸幕府の開祖・徳川家康が三河国の領主から天下人へと駆け上がっていった陰には、優秀な家臣団の存在がありました。そんな家臣団にまつわるお城にスポットライトを当てる、小和田哲男先生の連載講座「家康を支えた徳川家臣団の城」。第11回は、徳川四天王の榊原康政が城主を務めた館林城(群馬県館林市)です。康政の入城以前の歴史を振り返りながら、守りを固めるため康政が取り入れた築城の工夫に注目していきましょう。
館林城前史
館林城は「徳川四天王」の一人榊原康政が築いた城として知られているが、康政以前にも館林城はあった。その館林城は尾曳(おびき)城ともよばれていて、興味深い築城伝説が語られている。この地の領主赤井照光が、たまたま通りかかったところで、子どもたちによって子ギツネがいじめられているのをみて、助けたところ、その親ギツネが感謝して、自分の尾で縄張を示し、その縄張通りに城を築いたというものである。ちなみに、城内にはその伝説に由来する尾曳稲荷神社があり、一帯は尾曳郭とよばれている。
その後、永禄5年(1562)、越後の上杉謙信の侵攻により赤井氏は追放され、足利城主長尾景長が館林城主となり、さらに長尾顕長が城主となっていた。長尾顕長の時代がしばらく続いたが、天正13年(1585)、小田原北条氏の侵攻により、長尾氏は退却し、館林城は北条氏の管轄となり、伊豆韮山城主北条氏規が城代となっている。
結局、同18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めで、この地も新たな領主となった徳川家康の支配するところとなった。
榊原康政の館林城入り
この家康の関東転封により、それまで、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃に所領を持つ家康家臣が関東各地に配置されることになった。このときの知行割では、下級家臣は江戸周辺に所領を与えられているが、1万石以上の上級家臣は関東周縁部に配置されている。
上野国では11名の1万石以上の家臣が配置されており、トップは井伊直政の箕輪城(群馬県高崎市)12万石で、第2位が榊原康政の10万石だった。10万石以上はこの2人だけで、あとは平岩親吉の厩橋(まやばし)城(群馬県前橋市)3.3万石、牧野康成の大胡(おおご)城(群馬県前橋市)2万石など、いずれも3万~2万石どまりだった。ただ、井伊直政と榊原康政に2万石の差をつけた理由はよくわかっていない。
家康が10万石を超える大身の家臣を上野国に置いたのは、その時点では家康の領国に組み込まれていなかった下野国と常陸国に隣接するという点と、奥羽地方への備えだったと考えられている。家康としては、最も信頼のおける井伊直政と榊原康政の2人をこの重要地点に置いたことになる。
惣構を築く康政

館林城は城沼を天然の要害として築かれた
館林城は平城である。平城だと要害堅固というわけにはいかないのではないかといわれることがあるが、館林城は城沼(じょうぬま)のほとりに築かれ、城沼を要害としている点に特徴がある。城沼の水をうまく堀として使い、本丸・二の丸・三の丸が横一列に連なる連郭式の縄張となっていて、簡単には攻められない城であった。

館林城本丸
それだけでなく、康政は、さらに、文禄2年(1593)から城下町の惣構(そうがまえ)普請に着手している。城下町をすべて土塁と堀で囲んでいるのである。この工事には周辺の村人たちも動員されたといわれ、同4年に完成したという。惣構といえば、北条氏の小田原城(神奈川県小田原市)惣構が有名だが、天正18年(1590)の小田原攻めに参陣していた榊原康政のことなので、惣構の有効性を考え、自分の城にもその技法を取り入れたのかもしれない。

八幡曲輪土塁
なお、康政は、関ヶ原の戦いのときには中山道を進んだ徳川秀忠本隊の中にいたため、関ヶ原での軍功はなかった。家康が秀忠の関ヶ原秀忠遅参を詰(なじ)ったとき、「それは私の責任です」と、秀忠を弁護したことでも知られている。慶長11年(1606)5月14日、康政は59歳で館林城において亡くなり、館林の善導寺に葬られた。
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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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