家康を支えた徳川家臣団の城 家康を支えた徳川家臣団の城 第10回 箕輪城

NHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康が、三河国の領主から天下人へと駆け上がっていった陰には、優秀な家臣団の存在がありました。そんな家臣団にまつわるお城にスポットライトを当てる、小和田哲男先生の連載講座「家康を支えた徳川家臣団の城」。第10回は、上野国(こうずけのくに)の国衆である長野氏が拠点として築き、徳川四天王の井伊直政に与えられた箕輪城(群馬県高崎市)です。直政の入城以前と以後で、箕輪城がどのように造り変えられたのか見ていきましょう。

井伊直政が12万石で入城

徳川四天王といわれる4人の内、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政の3人までは三河出身で、純然たる三河武士・三河譜代である。しかし、4人目の井伊直政は三河ではなく、遠江(とおとうみ)の出身だった。

直政の父井伊直親は遠江の井伊谷城(静岡県浜松市北区引佐町)の城主で、戦国大名今川氏に仕えていた。ところが、永禄5年(1562)、直親は家康に通じたとの理由で謀殺されてしまったのである。そのとき2歳だった直政は縁戚によって匿(かくま)われて育ち、それから13年後の天正3年(1575)、15歳になった直政は、浜松城主となっていた家康に小姓として仕えることになった。

それからの直政の働きは目ざましく、翌4年(1576)、家康が武田勝頼と対峙した遠江芝原の戦いで初陣を果たすと、同9年(1581)の遠江高天神城攻めでも活躍しているし、本能寺の変後における「神君甲賀・伊賀越え」にも加わり、無事岡崎に帰還したとき、直政には家康から特に恩賞として孔雀の羽根で織った陣羽織を下賜されたほどである。

天正壬午(てんしょうじんご)の乱に際しては、直政は調略によって武田遺臣を味方に引き込む働きをし、その功によって、武田遺臣のかなりの部分が直政支配下に入っており、例の「赤備え」の軍団がいたことで、このあと「井伊の赤備え」とよばれるようになる。

そして、天正18年(1590)の家康の関東移封に伴い、直政には上野箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)が与えられることになった。このときの石高は12万石で、徳川四天王の第1位である。このあと、12万石の大名にふさわしい新しい箕輪城の築城に着手するのである。

箕輪城
復元された郭馬出西虎口門

直政入城以前の箕輪城とは

そもそも箕輪城は永正初年(1505頃)に長野業尚(なりひさ)によって築城されたという。榛名山麓南東の白川河岸段丘上に築かれた丘陵城郭である。時代が下って永禄4年(1561)、城主の業盛(なりもり)が病死したあと業政(なりまさ)が家督を継いでいる。その頃、長野氏は上杉謙信に属していたことが「関東幕注文」からわかる。まさに、上杉謙信と武田信玄の戦いまっただ中で、業政の箕輪城は武田軍に攻められ、永禄9年(1566)9月、業政は武田軍と戦い自害している。その戦国合戦の舞台となり、上野の要衝ともいうべき箕輪城に直政が入ったのである。

直政によって造り変えられた箕輪城

長野氏時代の大手は、現在、搦手とよばれているところだったので、大手を付け変えている。また、長野氏時代は土の城であったが、直政のとき、三の丸や鍛冶曲輪など一部ではあるが石垣を積んでいる。石を用いた近世城郭へと改修が進められたことがうかがわれる。

城の見どころの一つといわれている二の丸から鍛冶曲輪の南側に掘られた幅30m、深さ9mの城の南北を二分する大堀切も直政入城後に改修された部分と思われる。

箕輪城
二の丸の堀

こうして新しく築き直された箕輪城であるが、直政はいつまでも箕輪城にいたわけではなかった。直政は慶長3年(1598)、新たに高崎城(群馬県高崎市高松町)を築いて移っていったからである。これは家康の命令であった。というのは、この年、中山道が開かれ、江戸と大坂を結ぶ要路となったため、碓氷(うすい)峠を固める目的が生じたからである。従って、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いのときは、直政は箕輪城からではなく、高崎城から出陣していった。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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