実はミステリアス!?石垣の「刻印」は歴史を語る生き証人

皆さんは石垣に、何か印やマークがついているのを見たことがありませんか? お城や石丁場で見かける石垣の刻印(こくいん)、別名「刻紋」とも呼ばれるそれは、石垣造りに携わった古の人が確かに存在したと教えてくれる「生き証人」です。一見意味が分からなくとも、藩の記号や人名、年月、作業の順番を示しているなど、刻印が教えてくれる情報は山ほどあります! 紙の記録にすら残っていないような情報も、刻印を通して知ることができる…かもしれません。さぁ、ミステリアスな刻印の世界へ参りましょう!

石垣の石の「刻印」って何?

「刻印(こくいん)」とは、石垣の石に刻まれたマークのことです。皆さんも一度は目にしたことがあるのではないでしょうか? ではその刻印、いったい何のために彫っていたのでしょう。

築城史研究会の藤井重夫さんによると、刻印とは、
・大名に関わる記号および文字
・奉行、作業グループ
・丁場の範囲、順番を示すもの
・石の寸法、個数
・石材切り出しの地名
・年代
などの符号を石に付与したものだといいます。

刻印,いなもとかおり
大阪城、南外堀二の丸側で見られる石垣。丸に「二」の刻印と、九曜紋の刻印が担当範囲を示すように並んでいる。ここは大和高取藩・本多家と豊後小倉藩・細川家の境目部分だ
 
刻印,いなもとかおり
(左上)小豆島の大坂城残石記念公園内にある細川家の刻印「九曜紋(くようもん)」、(右上)松江城の石垣に刻まれた堀尾家の家紋「分銅紋」、(左下)備中成羽藩・山崎家の刻印は丸に「山」の字、(右下)大阪城南外堀二の丸側で見られる、根石からの石の個数を表す刻印

石垣に見かける多くの刻印は、○△□などの記号を組み合わせたような形が多いです! 細川家の「九曜紋」や堀尾家の「分銅紋」のように、家紋や旗指物(はたさしもの)に寄せた符号もあれば、山崎家のように自身の名前から連想できる符号を刻印として使った家もあります。

刻印,いなもとかおり
 (左)駿府城にある三つ串団子のような刻印、(右)江戸城天守台にある星マークの刻印

他にも、家紋とは全く関係ない「三ツ串団子」などのかわいい符号を使った刻印や、「星マーク」のような呪術的な意味を連想させる刻印もあり、千差万別で個性のあるところが魅力です!

刻印,いなもとかおり
(左上)岩崎山の「鷹の羽根」刻印は、筆者が今まで見た刻印の中で一番BIGサイズ。矢穴と比べて見てほしい、(左下)熊本城の、人の顔が描かれた刻印。熊本地震で崩落した石垣の中から出てきたもの。何か呪術的な意味があるのだろうか、(右)大坂城残石記念公園のあった小海村一帯は小倉藩・細川家の丁場だった。「井」の刻印の隣に「八百九内」の文字がある。担当した奉行の嶋・佐藤組は809個の石を切り出したそうだ。「八百九内」の文字が彫られた石は公園内に複数展示されている

そして、運がよければ、文書の記録に残さなかったような情報も刻印を通して知ることができます。
例えば、大阪城の石丁場で809個の石を切り出したという小倉藩・細川家。大阪に運ばれることなく、島に残された残石には「八百九内」と彫られた刻印がいくつも見られます。そんなに強調する必要もないのに「俺たちは809個石を用意したんだ! どうだ、すごいだろ!」と、主張しているかのように見えてきますね。細かくしっかり記録するルールでもあったのかな? と、想像するとさらに面白く感じてきます。

他にも、大きすぎる刻印を彫ったり、人型を彫ったりと、日本各地の城に不思議な刻印がまだまだあるのです。刻印が、どのように・どれだけ多く刻まれていたのかも、当時の人を知る手がかりになりますね!

刻印はお城や石丁場に潜んでいる

刻印,いなもとかおり
静岡県伊東市にある「中ノ沢石丁場」。江戸城の採石場だ。切り出し整形された石材の表面には、○の中に「・」を打った刻印が彫られている。レーンに並べて出荷を待っているかのようだ

刻印は、お城だけではなく石丁場(採石場)でも見ることができます! 江戸都市史研究家の後藤宏樹さんによると、刻印は「石丁場での石材切り出しや、保管、構築直前などさまざまな段階で、その所有を明確にするために付されたもの」だといいます。つまり、石丁場ではグループごとに採石をしているため、自分たちの担当した石が紛失しないように管理していたということです。

石丁場の中には私有地のため立ち入れない場所もありますが、天狗岩石丁場(香川県小豆島町)のように、散策路のある整備された石丁場もあるので、ぜひ訪れてみてください!

併せて読みたい記事:
「大人も学べる 理文先生のお城がっこう 大人も「お城がっこう」| 城歩き編 第29回 石切丁場を訪ねよう2」(https://shirobito.jp/article/1254

 
刻印,いなもとかおり
静岡県熱海市の中張窪石丁場にある熱海市指定有形文化財の「標識石」。「是ヨリにし 有馬玄蕃 石場 慶長十六年 七月廿一」と彫られている。ここは慶長16年…1615年のままなのだ

ちなみに、丁場内では、自分たちの担当範囲を示すために石に文字を刻むこともあります。丁場の中央を示す「標識石」や、丁場の境界を示す「境界石」、さらには採石が行われた年月が記されることもあり、石を見ると「あぁ、ここは慶長16年のままなんだ〜」と感動を覚えるのです! 今でいう、工事現場のお知らせ看板に近いのかもしれませんね。

刻印ミステリー① いつ石につけたの?

刻印研究の歴史は長いですが、まだまだ謎につつまれた部分が多いというのも刻印の面白い点です。

そもそも「いつから使い始めたのか」ということもはっきりとは言えません。本土の城よりも早く石造りで築かれた沖縄の中城城にも刻印のようなものが見られますが、意味のあるものなのかどうかはっきりしません。ここを探るには膨大な資料の山に突っ込んでいかねばならないので、また別の機会に…。

刻印,いなもとかおり
名古屋城本丸東面、内堀の石垣についた刻印。1種類が3つついた石(左)と、3種類が3つついた石(右)が横に並んで積まれている

そして「刻印はどの段階でつけられたのか?」というのも、実はよくわかっていません。ましてや、石1つに刻印が1つのものもあれば、2つ、3つ…5つの例もあります。その違いは何なのでしょうか?

「細川家文書」の寛永13年(1636)の記録からは、江戸の石の水揚げ場もしくは石置き場で刻印が付けられたような内容が読み取れます。ここから推理すると、石丁場で印をつけ→江戸の水揚げ場や石置き場で再び印をつけた…と、考えることもできますが、それならば、「刻印が1つしかない石」が存在する説明がつきません。どちらかを忘れてしまったのでしょうか。これはどんな有能なミステリー作家でも、解けない謎です!

刻印ミステリー② 同じ大名家なのになぜいくつも種類があるの?

刻印,いなもとかおり
小豆島にある国指定史跡の「天狗岩石丁場」。ここは筑前福岡藩・黒田家の石丁場だ。残石にはいくつかの種類の刻印が見られる。しかも、この石丁場では石に2種類の刻印が並んで彫られているケースが多い

藩によって刻印の型が違うことは判別するための絶対条件となりますが、藩の中でもいくつか刻印の型を使い分けている点もミステリーです!

天下普請で築かれた城では、石高が高い大名ほど調達せねばならない石材の数も多くなるため、たくさんの人が動員されます。よって、グループも細分化されるため、刻印の型が多くなる傾向があるようです。

また、石材を切る人や運ぶ人、積む人で役割が別れているケースもあります。さらには、お城の場合は築城から廃城になるまでの数百年の間に石垣を修復している可能性があり、石丁場の場合も修築時に前回とは異なった藩が入ったことで刻印が変わるケースもあるでしょう。今、見ている刻印は最終段階の状態。それを読み解いていくのは、なかなか複雑で難解な神経衰弱ゲームをしている気分! これらミステリアスな部分が大きいのも、刻印に魅了される理由の一つなのでしょうね。

併せて読みたい記事:
「超入門!お城セミナー 第51回【歴史】江戸時代の一大事業「天下普請」って何?」(https://shirobito.jp/article/668

刻印パラダイスへGO!

最後に、刻印をたくさん楽しめるお城とそのポイントをご紹介します。

<江戸城 清水門>

いなもとかおり,刻印

まずは、徳川家の居城「江戸城」。本丸の梅林坂や、外桜田門周辺、大手濠や北桔梗門周辺にも刻印パラダイスは存在しますが、おすすめは北の丸公園にある清水門。清水門自体も現存する文化財価値のある門ですが、なんといっても石垣が面白い! 清水門周辺だけではなく、濠の向こう側にある石垣もぜひ観察してください。望遠鏡必須です。

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<金沢城 極楽橋下の空堀>

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200種類の刻印が確認されている金沢城のなかでも、極楽橋下の空堀は刻印が豊作なスポット! ここでは58種類の刻印を見つけることができます。全部見つける頃には、上を向きすぎて首が痛くなっている予感。

そういえば、城びとストアで販売している「石垣風呂敷」も極楽橋で撮影したとかしないとか…?

包んでよし、隠れてよし、これさえあれば不測の事態にも慌てない!石垣風呂敷は城びとストアからお求めください!➡城びとストア https://shirobito.stores.jp/items/63b6c38dce1bd26ddffaa028
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<大阪城 刻印石広場>

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大阪観光ボランティアガイド協会のガイドさんによると、なんと6万個の刻印が確認されている大阪城! そこらじゅうに刻印が存在しているわけですが、注目は、山里丸にある「刻印石広場」です。築城400年を記念する事業の一環として、昭和58年(1983)に開設され、大小さまざまな刻印石が80個並んでいます。

大阪城内にあった石を展示したゾーンの他に、城外にあった石の水揚げ場や石置き場に残置されていた石を移動してきたゾーンも! 江戸時代には行くことが叶わなかった大阪城に、昭和になって運ばれるなんて、なんてロマンチックなのでしょうか!!

刻印めぐりは昔の人と遊ぶ神経衰弱

以上、お城や石丁場で見られる刻印をご紹介してきました。一口に「刻印」と言っても、符号や文字、絵など種類はたくさんあり、さらには大小の大きさや、同じ種類でも彫り手によって上手・下手があるような気がしています。

江戸時代、石丁場や普請場での喧嘩は御法度。「この石はコッチのものだ!」「いや、オレたちのものだ!」などと言い争うわけにはいけませんでした。そこで自分たちの石がわかるようにマークを刻んだのです。一方、現代でお城めぐりを楽しむ人達が、この刻印は誰のものだ? 石丁場とお城に同じ刻印があるか? なんて、まるで昔の人との神経衰弱をしているかのように楽しんでいるとは…昔の人は思ってもみなかったでしょうね!

<参考文献>
・藤井重夫氏「大坂城石垣符号について」『大阪城の諸研究』(名著出版、1982)
・後藤宏樹氏「江戸城跡と石丁場遺跡」『江戸築城と伊豆石』(吉川弘文館、2015)

いなもとかおり
 執筆・写真/いなもと かおり
 お城マニア&観光ライター
 年間120城を巡る城マニア。國學院大學文学部史学科古代史専攻卒。19歳の時に、会津若松城に一目惚れしてから城の虜となる。訪城数は700ほど。国内旅行業務取扱管理者、日本城郭検定1級、温泉ソムリエ、夜景鑑賞士2級の資格をもつ。城めぐりの楽しみ方を伝えるべく、テレビやラジオにも出演中。

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