城をめぐる最新研究|小和田哲男 城をめぐる最新研究 第8回「菩提山城の山上に竹中半兵衛の居館があった」

2024年12月の菩提山城(岐阜県不破郡)発掘調査報告で、山上から礎石が出土したことが発表されました。お城や歴史の最新研究にスポットライトを当てる小和田哲男先生の連載講座第8回は、「平時の居館と戦時の詰の城」という戦国の城の通念を考え直すきっかけになるかもしれない今回の発見についての解説です。

菩提山城発掘調査の発見

戦国の城の通念として、「平時の居館と戦時の詰の城」といういい方がある。戦いが無い時は平地の居館で生活し、戦いの時だけ、近くの山上に築かれた山城に籠城して戦うというものである。「居館と山城がセットになっていた」ということになる。
ところが、そうした通念を打ち破る研究が発掘調査によって浮かび上がってきた。豊臣秀吉の軍師として知られた竹中半兵衛重治の居城、美濃の菩提山城の発掘調査によって、山上の本丸とよばれるところから、礎石建ち建物のあったことを示す礎石が出土したのである。岐阜県不破郡垂井町の教育委員会が2024年度から進めている発掘調査によって明らかになったものである。

小和田哲男
菩提山城 本丸の礎石1

この菩提山城というのは、標高約400mの山上に築かれたもので、比高は何と約300mで、麓から山上まで登るのに1時間ほどかかる。ふつう、このような山城は、生活の場は下にあり、「戦時の詰の城」と考えられ、軍事的な防御施設があるだけで、生活空間は無いとされていたため、礎石の出現は意外だった。

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菩提山城 全景

城主・竹中氏の居住地についての通説

ところで、菩提山城は、はじめ、美濃守護土岐頼芸(よりのり)の家臣岩手氏の城であったが、この岩手氏を逐(お)って、斎藤道三の家臣だった竹中重元(しげちか)がこれを奪い、自らの居城としたものであった。その竹中重元の子が半兵衛重治というわけである。
竹中半兵衛というと、永禄7年(1564)、弟久作と士卒16人、合わせて18人で道三の孫斎藤龍興の稲葉山城を乗っ取ったことで有名であるが、この菩提山城から出撃していったことが知られている。しかし、これまでは、比高が300mもあると、ふだんは麓の居館に住んでいたとされ、山上には居住してはいなかったと考えられてきた。1時間もかけて登るのはきついと思って当然である。

この半兵衛重治の子が『豊鑑』の著者として知られる竹中重門で、重門は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの時、この地にあり、東軍徳川家康方につき、西軍の将の一人小西行長を捕縛したことで知られている。戦後、6000石の旗本となり、菩提山城の麓近くに陣屋を構えている。これが竹中氏陣屋(別名岩手陣屋)で、従来は、この陣屋のところが竹中氏の「平時の居館」があった場所と考えられていたのである。

山上か麓か、居住地考察における重要な一文

現在、陣屋跡には間口6間、奥行3間の櫓門が現存し、陣屋の南半分は小学校の建設によって改変してしまったが、北半分はよく残り、堀も残っている。ふつうに考えれば、半兵衛重治の子重門が、父重治が「平時の居館」として使っていた場所を陣屋としたということになるが、どうも違うらしい。というのは、『竹中氏家譜』に「菩提山之城を下り、岩手作館住居之」とする一文があるからである。江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』の竹中氏の項にも、「関原は重門が領知なるに、其地にをいて御勝利ありしとて米千石を恩賜せられ、のち采地岩手に住す」とある。

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菩提山城 本丸の礎石2

以上、みてきたように、菩提山城の山上から竹中半兵衛重治時代の礎石建ち建物の礎石が発見されたことで、比高300mほどの山城でも、常時山上に居住していた武将がいたことが明らかになったものと思われる。「平時の居館と戦時の詰の城」という通念を見直すべき時にきているのかもしれない。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程満期退学。1985年、文学博士(早稲田大学)。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)、『地図でめぐる日本の城』(帝国書院、2023)ほか多数
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