2025/07/11
城をめぐる最新研究|小和田哲男 城をめぐる最新研究 第6回「一国一城令」はなかった!?
学校で疑いようもない史実として教わる「一国一城令」。そんな「一国一城令」が実はなかった?! お城や歴史の最新研究にスポットライトを当てる小和田哲男先生の連載講座「城をめぐる最新研究」第6回は、「一国一城令」についてです。疑問を呈する学説や、一国一城令の名前の基ととなった書状などを紹介し、本当にこれは「一国につき一城」と限定するものであったのか考えます。
辞典にも掲載されている「一国一城令」
城郭史研究の分野において、「一国一城令」は周知の事実とされている。発布されたのが元和元年(1615)なので、「元和一国一城令」ともいわれている。概要について、たとえば『角川新版日本史辞典』は次のように述べる。
江戸初期の大名統制策。1615年(元和元年)、大坂夏の陣後に発令。1領国1城という趣旨で、これにより大名の多くは居城を除く領内の城をことごとく破却。ことに中国・西国大名に厳重に適用された。
つまり、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした幕府が、「これからは、諸大名の居城一つを残し、その他の支城を破却せよ」という命令である。この場合の「一国」というのは律令制での国ではなく、「藩」すなわち大名領の意味である。
「一国一城令」への疑問視
実は、この周知の事実とされてきた「一国一城令」は本当にあったのかという研究が近年出てきたのである。「一国一城令」のネーミングの基となったのが佐賀藩主鍋島勝茂に与えられた江戸幕府年寄連署奉書(「勝茂譜考補」)である。
一国一城之外破却候様ニと被仰出候。可被得其意也。
閏六月十三日
安藤対馬守
重信
土井大炊頭(マゝ)
利勝
酒井雅楽頭
忠世
鍋島信濃守殿
ここではっきりと「一国一城」という言葉を使用し、その内容を補強する意味で、同日附の奉書がもう一通出されている。
急度申入候。仍、貴殿御分国中居城をハ被残置、其外之城者悉可有破却之旨上意候。右之通諸国へ申触候間、可被成其御心得候。恐々謹言。
閏六月十三日 安藤対馬守
土井大炊助
酒井雅楽頭
鍋島信濃守殿
この2通目の奉書の方は同文のものが島津氏および毛利氏・黒田氏に宛てられたものにあるのでまちがいない。ただ、1通目の「一国一城」という文言は鍋島氏宛のものしかない。
こうしたことから、最近、花岡興文氏は「江戸幕府の城郭政策にみる元和一国一城令」(『熊本史学』97号、2013年)で、また、福田千鶴氏は「一国一城と城下町の形成―城をめぐる日本人の心―」(岩下哲典ほか編『城下町と日本人の心性』2016年)において、「一国一城」を謳った1通目の文書は偽文書ではないかと指摘している。「可被得其意也」と、「也」で終わる書留文言が不自然なのと、この元和元年の段階だと、土井利勝はまだ「大炊助」で「大炊頭」ではないことをあげている。両氏が指摘するように、「一国一城令」ではなく、「諸国城割令」とよぶのが正解なのかもしれない。
ただ、諸大名は「諸国城割令」を「一国一城令」の意味で受け取っていたようで、岩国城を破却することになった周防の吉川氏では「吉川家譜」において、「今度之御掟、一国一城トノ被仰出之由候」と記しているので、「一国一城令」といった受けとめ方をしていたことがうかがわれる。

一国一城令で破却されたという岩国城天守台の石垣
もし、諸大名が厳密に「一国一城令」として受けとめていれば、名古屋城には犬山城が残り、熊本城には八代城が残り、仙台城には白石城が残るといった例外は許されなかったはずなので、幕府の方も「一国一城」という意識はなかったと考えられる。

執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程満期退学。1985年、文学博士(早稲田大学)。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)、『地図でめぐる日本の城』(帝国書院、2023)ほか多数









