2025/04/02
城をめぐる最新研究|小和田哲男 城をめぐる最新研究 第5回「犬山城天守は天正13年から16年にかけて築かれた」
お城や歴史の最新研究にスポットライトを当てる小和田哲男先生の連載講座「城をめぐる最新研究」第5回は、犬山城天守の創建時期について。「現存最古の天守」と言われている犬山城の天守は、いつ築かれたのか? かつての定説や近年の研究、最新の学説の状況を紹介します。
諸説ある犬山城天守創建時期
現存12天守の一つで、国宝5城の一つでもある犬山城の天守は「現存最古の天守」といわれているが、いつ築かれたかは諸説があってはっきりしていない。かつては、美濃金山城(岐阜県可児市兼山)の天守が移築されたとし、「金山越し」が定説だった。
ところが、昭和36年(1961)から同40年(1965)にかけて行われた解体修理の結果、移築された痕跡が見つからなかったことから、その解体修理の委員長だった城戸久氏は、工事直後に刊行された『国宝犬山城』で、「天文6年(1537)に織田信長の叔父である織田信康によって、天守の1・2重が建設され、3重は慶長4年(1599)に石川光吉の時代から同6年(1601)の小笠原吉次時代の増築」としていた。
それに対し、西和夫氏は昭和52年(1977)に「犬山城天守の創建年代について」という論文を『日本建築学会論文報告集』第261号に発表し、天文6年説は無理があるとし、1・2重は小笠原吉次による慶長6年(1601)、3重は成瀬正成による元和6年(1620)頃の増築とする説を提起した。
このように、犬山城天守の創建年次については研究者の間で意見が分かれているのが現状である。

犬山城天守
年輪年代法による研究で一件落着?
こうした混沌とした研究状況を打開すべく年輪年代法による木材の伐採年からアプローチしようとした研究が現れた。令和元年(2019)から2年間、名古屋工業大学教授麓和善氏と奈良文化財研究所客員研究員光谷拓美氏による研究で、『国宝犬山城天守再考』(犬山市教育委員会)にまとめられている。それによると、1階と2階の通し柱の伐採年が天正13年(1585)、4階床の梁の伐採年が同16年(1588)ということで、1階から4階までが天正13年(1585)から16年(1588)にかけて一連で築かれたことが明らかになった。
天正13年(1585)から16年(1588)というと、織田信雄が支配していた時代なので、犬山城天守は織田信雄が築いたということになる。犬山城天守は信雄の父信長が築いた安土城天守と同じ望楼型なので、それとも合致し、また、4階の廻り縁も、以前、城戸久氏が元和6年(1620)頃、成瀬正成によって付け加えられたと推測していたことが、廻り縁の板がその頃の伐採と考えられることから、一件落着かと思われた。
年輪年代法を踏まえた上で振り出しに戻る
ところが、これで終わりではなかったのである。
建築史を専門とする広島大学名誉教授の三浦正幸氏が、令和5年(2023)、美濃金山城跡国史跡指定10周年記念講演「美濃金山城と犬山城天守」(『森氏と家康~城郭研究の最前線から~記録集』)において、年輪年代法でいう天正13年(1585)から同16年(1588)伐採を認めながら、それは森忠政が美濃金山城に建てた天守であり、それが、慶長6年(1601)に現在の犬山城のところに移築されたという「金山越し」を肯定する見解を発表されたのである。三浦正幸氏は、尾張を与えられた松平忠吉(家康の4男)の付家老小笠原吉次が、美濃金山城の天守を移築したとした。「金山越し」があったのかなかったのか、また、振り出しにもどった形である。

美濃金山城石垣

執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程満期退学。1985年、文学博士(早稲田大学)。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)、『地図でめぐる日本の城』(帝国書院、2023)ほか多数









