2026/07/03
城をめぐる最新研究|小和田哲男 城をめぐる最新研究 第10回「安土城の天主と本丸御殿の間に別な御殿があった!?」
発掘調査が続けられている安土城で、これまでの史料にはない建造物の存在が明らかになりました。小和田哲男先生による連載講座「城をめぐる最新研究」最終回となる第10回では、建造物がどのような目的で築かれたのか、現在考えられている可能性について解説します。
絵図や文献資料に載っていない建造物の存在が明らかに
特別史跡安土城跡において、滋賀県文化スポーツ部文化財保護課によって発掘調査が進められている。令和5年(2023)から「令和の大調査」ということで天主台の東「伝本丸取付台」の部分から新しい発見があった。
令和6年度、その「伝本丸取付台」から、南北に約8列、東西に約5列、一定間隔に並ぶ礎石が見つかったのである。建物の規模は東西がおよそ9.5m、南北が約17.5mと推定されている。

安土城伝天主台取付東半出土礎石
翌令和7年度には、同じく「伝本丸取付台」とよばれるさらに北東の部分約600㎡を発掘したところ、東西約30m、南北約10mの範囲でやはり礎石が見つかったのである。礎石はそれぞれ80cm程度の大きさで、天主の礎石とほぼ同じ大きさである。この発掘調査の結果、「伝本丸取付台」に2棟の礎石建ち建造物があったことが明らかになった。
そこには、これまで知られていた絵図にしても各種文献資料にもそのような建造物があったことを示すものは何もなかったのである。
2棟の御殿の謎
礎石の大きさからしても、そこに2棟の御殿があったことが推定されることになるが、問題は、その御殿が何の御殿だったかである。
天主の直下で、しかも場合によっては、この御殿を通って天主に上がるということも考えられる位置にあることから、単なる家臣の居住空間とは考えられない。安土城内に重臣や側近の屋敷があったことは絵図にも描かれているがいずれも本丸の外である。
今回のこの「伝本丸取付台」は、天主と本丸御殿の間に位置するわけで、家臣クラスではなく、要人の建物だったとしか考えられない。
そこで浮上してくる考えの一つは、「信長のふだんの住まいの御殿だったのではないか」とするものである。
信長は天主に居住したことで知られているが、いつもいつも天主に起居していたわけではなく、天主と御殿をいったりきたりしていたと考えることもできる。
別の推測も。今後の発掘調査に期待
また、信長が正親町天皇の安土行幸を計画していたことから今回発見された御殿もそのための御殿ではないかとする考えも生じてくるかもしれない。『信長公記』によって、安土城本丸に「南殿」「江雲寺御殿」「御幸の御間」があったことは明らかである。「南殿」は内裏の公式行事の場である紫宸殿の別称なので、これと「御幸の御間」のセットで、安土城本丸に天皇の行幸を迎える何らかの建物があったであろうことは想定されていた。
ただ、この点に関しては、平成11年(1999)に滋賀県安土城郭調査研究所が行った本丸の前面発掘によって、本丸部分から内裏の清涼殿の間取りとそっくりな御殿の礎石が見つかり、そこが「南殿」「御幸の御間」ではないかということになっているのである。いずれにせよ、もう少し発掘調査が進むことによって答えが出てくるかもしれない。

執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程満期退学。1985年、文学博士(早稲田大学)。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)、『地図でめぐる日本の城』(帝国書院、2023)ほか多数









