前田慶次の自腹でお城めぐり 【第21回】凸岩村城 後編~六段壁以外も天晴れ~

お城に関する豊富な知識を持つ名古屋おもてなし武将隊®の一員・前田慶次様が、全国のお城を実際にめぐりながら歴史・特徴・魅力を解説。今回は、日本三大山城の一つに数えられる岩村城(岐阜県恵那市)の後編です。岩村城のシンボルである六段壁の石垣はもちろん、そこに至る道中での見逃せない遺構の数々、さらに城下町でぜひ立ち寄りたい岩村名物グルメスポットまで細かく紹介します。

▼前編はこちら

皆の衆、我こそは名古屋おもてなし武将隊天下御免ノ傾奇者前田慶次である。

此度(こたび)城びとと同盟を結び、此の前田慶次が連載を持つ事と相成った。
先ずは、名乗りを上げよう。

前田慶次

前田慶次齢四八十一歳。戦国の世では天下御免ノ傾奇者として名を馳せ申した。現世に蘇りは名古屋おもてなし武将隊の一角として、名古屋城を拠点に名古屋を世界一の観光都市にせんが為、日々戦働きに勤しむ。

演武といったパフォーマンスなるものを披露し、電波放送戦(テレビやラジオ)は常戦番組(レギュラー)を持ち、全国各地に遠征を繰り広げる。
結成十四年目を迎え、全国の武将隊の先駆けとして日ノ本を代表とする武将隊である。
して、儂前田慶次は現世に蘇り歴史の語り部として多くの戦に出陣して参った。

伝統芸能を伝える舞台出陣、歴史学者との対談、寺子屋(学校)での歴史授業。
名古屋城検定名誉顧問に叙任され、検定過去最高得点を叩き出す。
日本城郭検定にも挑戦し合格。
日ノ本が誇る歴史文化をより多くの者に伝えるべく、此度から城びとでの連載を始める次第。

題して
 
前田慶次の自腹でお城めぐり、犬山城

【前田慶次の自腹でお城めぐり】

他の連載と何が違うのか!?

・現世に生きる戦国武将自らが感じたことを紹介!
・傾奇者による城郭魅力度数値化!
・城巡りの手引書(案内)となる!
・地域の特色を織り交ぜ、観光が楽しくなる!
・イケメン(前田慶次)が見れる!
・要点を抑えた紹介!
・兎に角分かりやすい!

全国の城に直接己が足で出向き、城の見方、歴史を伝え、
其の城の傾き所(見所)や天守閣、男前田度(イケメン)を前田慶次の独断で評価する。
歴史初心者から玄人まで楽しめる、国宝連載となっておる。

ただ城を巡るのではなく! 儂の金子(金)で城に登城する。つまり限られた金子で巡る
旅の道中劇にも注目してもらいたい!!
また巡り方については、王道の道順を歩む故に参考にすると良い。

岩村城 城郭の魅力度を数値化

前田慶次、岩村城

六段壁の石垣は必見!

前田慶次、岩村城

【基本情報】

城郭構造:山城
主な築城者:遠山頼景
築城年:永世年間(1504~1521。1508年築城が有力)
廃城:明治6年(1873)
指定文化財:岐阜県指定史跡

【歴史】

■永正年間?鎌倉時代?に築城
遠山頼景により築城される!
永正5年(1508)が有力とも言われるが、永正年間(1504年~1521年)に築城されたそうじゃ。
また、源頼朝の重臣加藤景廉(かげかど)によって築城されたという伝承もあり!
となると鎌倉時代から存在することになる!

■織田信長と武田信玄の最前線となった岩村城
天正3年(1575)長篠の戦いに勝利した織田信長が
武田方となっていた岩村城を包囲して攻める。
約5ヶ月に及ぶ籠城戦の末、落城。
城将達が磔にされ、遠山家も命を落とし遠山岩村氏は滅亡した。

■近世城郭へ大改修
本能寺の変の後に東濃支配の拠点であった金山城の城主森長可の家臣、各務兵庫が入城し
近世城郭へと大改修し、この時に石垣の城となった!
天正12年(1584)小牧長久手の戦いにおいて徳川方が岩村城を落とす!

■関ヶ原以降は松平家
慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は松平家乗が2万石で入城し岩村藩が立藩!
慶長6年(1601)松平は岩村城の整備と共に麓に藩主鄭を築城し居館とした。
寛永7年(1630)に本丸が完成!

■廃城へ
明治6年(1873)の廃城令により建物はすべて撤去され石垣のみ残る!
藩主鄭は残されていたが、明治14年(1881)に全焼した。

■最近
昭和47年(1972)に岩村歴史資料館が開館。平成18年(2006)日本100名城に指定される。

前田慶次、岩村城

前田慶次、岩村城、一の門、大手門

【一の門 厳重すぎる大手門】

岩村城の最初の要、初門を抜けて登り進めると「一の門」へ辿り着き申した!
儂が鉄砲を構えておる理由は、此処は櫓門であったからじゃ!
向かって右側に石垣を築き櫓門と多聞櫓で守りを固めた厳重な場所であったのが分かる!

慶次「大手門故に、大軍が進軍できないように門の前面に石塁も設けておったそうじゃ。
道幅も狭く此れを突破するのは難関であったろう…」

前田慶次、岩村城、土岐門、大手二の門

【土岐門(大手二の門)】

大手二の門になる「土岐門」は薬医門であった。
現在は徳祥寺に移築され、岩村城移築建造物の中で唯一建っていた場所が特定できておる!

薬医門は櫓門の次に格式が高い門構えとなっておる。
移築された土岐門も立派故に、刻許せば観に参ると良い!
また、土岐門の由来は城主遠山が戦勝記念に土岐氏の城から移築したからとも言われておる。

慶次「土岐家は武家の中でも名家である!
遠山は威厳を持たす為にも土岐という名前を用いたのかもしれんのう!
因みに薬医門は寺社でよく目にする事ができるぞ!
城では現存するのは宇和島城のみ。非常に貴重な門である!」

前田慶次、岩村城、三重櫓、橋

儂が示すのは橋!?

前田慶次、岩村城、三重櫓、橋

木々を取り除き心の目で観ると橋と櫓が見えてくるはずじゃ…。

前田慶次、岩村城、三重櫓、橋

【岩村城最恐の守り!三重櫓と橋?】

登り進めて参ると石垣と何か虎口のような場所が見えて参った。
儂が手を挙げておる場所から、向かいの高石垣(立っておる場所)までを
畳橋と呼ばれた木橋で繋いておったそうじゃ!!

慶次「この仕組みは、他の城でも中々目にすることがない! 貴重である。
戦の時は橋を取り外す事も、敢えて落とす事も可能で敵兵の侵入を防ぐ重要な橋なのじゃ」

更に、橋の正面に構えたるは岩村城唯一の三重櫓!
巨大な櫓から強力な攻撃を与える!
枡形門も形成されており二重の防御は城内で最も守りが堅い場所と言える!

前田慶次、岩村城、棟門

お城あるある!
斯様な窪みがあるのは、門があった証也!
此処には棟門があったのじゃ!

前田慶次、岩村城、井戸

【井戸にも格式がある!?】

城内に井戸を設けるのは至極当然。
籠城の際の水不足は最も恐ろしい状況になる故に、多い城では井戸を100カ所以上も造ることもある。
城と切り離せん井戸にも、格式と申すか重要さを物語る点がある!

其れが此の「霧ヶ井」と呼ばれし井戸に設けられておる「覆屋(おおいや)」である!
屋根のようにものが建てられておるのがそれじゃ。
元々は社殿等を守る為に建てられるものだで、城内でも特別感を演出しておる!

前田慶次、岩村城、菱櫓

【えりゃー珍しい菱櫓とは】

全国的にも珍しい菱櫓
この記事を読む城好きでも初耳の者もおるやもしれぬな。

鈍角に屈曲した石垣に沿って多聞櫓が建てられ、
上から見ると菱形に見える故に菱櫓と呼ばれる!
当時の菱櫓が残っておらぬ故に説明がちと難儀するが、想像力を働かせてくれ!
菱櫓は死角を減らし見渡しが良くなる。
(前田家の金沢城にも菱櫓があり天守の代わりとして象徴的な存在となっておる)

菱櫓跡の先には岩村城のアレが…。

前田慶次、岩村城、石垣、六段壁

どどーん!

前田慶次、岩村城、石垣、六段壁

【岩村城の象徴“六段壁”】

岩村城の写し絵を見ると、此の六段壁が登場することが殆どで象徴的な存在と言えよう。
何と申しても珍しい石垣で圧巻の10mを超える高さを誇り、見る者を虜にする。
城好き、石垣好きでなくとも一度は見てみたいと思える代物であろう?

岩村城も歴史が長いのと、城主が織田信長様の叔母上で女城主であった印象が強い故にか
戦国時代で此の六段壁も築かれておると思われがちであるが、
ご覧の通り石垣に注目してもらいたい!
自然石を利用しておらず、加工された石垣を利用しておる。
此れは打込み接(は)ぎという技法で積まれた石垣故に戦国末期~江戸期の技術である!

また、何故六段となったか
石垣が崩れぬように改修を重ねる際に追加していった結果なのじゃ。
元々は一番上に見える石垣の崩落を防ぐ為に、前に犬走(いぬばしり)と小さめの石垣を築いた(追加した)。
これを繰り返した結果六段となったのじゃ!

前田慶次、岩村城、石垣、六段壁

【六段壁の手前には二重櫓や重要書類を…】

六段壁の前面部分は左側に橋櫓があり、
橋櫓二階と二之丸の間には廊下橋が架けられおったそうじゃ!
実に珍しい造りである!

二之丸には各施設に幕府の朱印状を始め重要書類を補完する蔵、兵糧米、武器宝物蔵、馬屋が立ち並び
岩村城の心臓部分と言っても過言ではない!

前田慶次、岩村城、犬走、六段壁

登れば犬走も分かりやすい!

前田慶次、岩村城、長局、六段壁

本丸下段にあたる此処は「長局(ながつぼね)」という曲輪。
門は埋門(うずみもん)形式で櫓も構えておったそうじゃ。
これまた、珍しい造りといえよう。

前田慶次、岩村城、本丸

前田慶次、岩村城、本丸

【標高717mの山頂!本丸からの眺め】

本丸は上下二段構成となっており
二重櫓や多聞櫓も構えられ重厚感溢れる本丸であるが、
此の景色を考えると見上げる側にとっては、強力な守りに見えたであろう!

慶次「儂も山城は割と攻めて参ったが、
岩村城攻略は足軽の者達の士気が上がりにくそうじゃ。
建物を壮大にする事は、権力も見せられるが
戦の際の戦意を削ぐ大きな力がある!」

調べると門は埋門の他、冠木門(かぶきもん)もあったそうじゃ。
冠木門は門としての格式は低いし守りも固いわけではない。
故に本丸としての守備としてはちと物足りなさが一部感じたのう!

下山して参る!

前田慶次、岩村城、石垣

道中石垣にも注目して見ると良い!
此方は切込接ぎの積み方で高い技術も所々見られる!
岩村城は改修を重ねておる故に、色んな時期の石垣も楽しめる!

物見は観光を楽しむべく城下町へいざ参る!

 前田慶次、岩村城、町並みふれあいの館

【観光案内所:町並みふれあいの館】

城下町の中心地である本町通近くに観光案内所が御座る!
此方で情報収集と共に、御城印を手にする事ができるそうじゃ!
登城せし者は必ず寄る場所となろう!
また、岩村城の城下町を形成したのは丹羽家が城主の時代と言われておる!

前田慶次、岩村城、城下町、枡形

前田慶次、岩村城、城下町、枡形

【城下町にも工夫】

敵が攻めてくる折に、先ず足止めするのは城下町である!
岩村城の城下町は出入口に枡形を形成しており、何と3カ所も設けておった!
周囲は土塁を設けて町が見えにくい工夫を施した!
城下町にも守備を固めるのは江戸期以降の特徴とも言える!

また、城下町には古き商家が沢山残っておる故にそれらにも足を運び
当時の住まい、生活というのが現世の者にも分かりやすかろう。

前田慶次、岩村城、城下町、五平餅のみはら

【美人亭主が振る舞う岩村名物】

どえりゃー歩いた故に腹も減ったで岩村名物を食に参ったのが此方!
「五平餅のみはら」殿。
共に写絵に映っておるのが美人亭主で御座る!

岩村の地は五平餅が名物と聞いて、此方のみはらが美味いと評判!

前田慶次、岩村城、城下町、五平餅のみはら

前田慶次、岩村城、城下町、五平餅のみはら

五平餅定食を頼み申した!
ご覧の通り吸物もあり香の物もありと豪華な五平餅定食也!
五平餅の味もごまだれとねぎ味噌だれと二種類あり武士の儂は味噌は外せぬ!
厚みがえりゃー御座って食べ応えがあり美味かったのう!

また、あまりの美味さと城巡りで体力を使った故におかわりする儂!

前田慶次、岩村城、城下町、五平餅のみはら

焼きそばも食べ申した! これまた美味であった!
是非皆も足を運んだ際は食べて見ると良いぞ!

前田慶次、岩村城、城下町

岩村本通りを抜けて岩村駅へ向かい名古屋へ帰陣。

【まとめ】

三大山城の一角岩村城であるが、期待通りの見応えと城郭としての楽しみが御座った!
遺構は何と申しても『石垣』。
山城で石垣自体多くは無いが、江戸期に跨っての石垣を山城で見られるのは珍しいし、
象徴的な存在の六段壁は何枚写し絵を撮っても楽しめる満足感!
建物は残っておらぬが、そこは城好き得意の“想像・妄想”で豊かに楽しんでもらう!
されど、岩村城の工夫は天晴である!
瓦版(有料)に掲載される現世の技術「QRコード」なるもので読み込むと
当時の建物の様子と解説が音声で紹介してくれる!
此処まで城案内に力を入れておる城も中々御座らぬ。
他の城郭も真似しても良かろうと儂は思うた。
つまり、先んじて観光客の立場になり出迎える岩村城は現世においても名城と言える!
古き町並みも楽しめるし、城巡りを数カ所してから行くとより楽しめる城であろう。
皆も遊びに行ってちょ!

して、我が残金であるが1万1259円
次は何処の城へ参ろうか。
次回の記事も楽しみにしてちょ!

次回の記事も楽しみにしてちょ!

以上
名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者 名古屋城検定名誉顧問 城びと連載人
前田慶次郎利益

凸伝令

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執筆・写真/前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)