都道府県のお城シリーズ 【秋田県のお城】古代、戦国、江戸。秋田に秘められた日本の歴史を追う

秋田県には、日本100名城の久保田城(秋田市)、続日本100名城の脇本城(男鹿市)と秋田城(秋田市)などのお城があります。壮麗な石垣や美しい天守のある派手なお城ではありませんが、無骨ながらも歴史を感じさせるお城です。それでは、築城の年代も目的も異なる、秋田県のお城をご紹介します。(※2019年1月24日初回公開)




久保田城
佐竹義宣(さたけよしのぶ)によって築かれた久保田城

秋田県にあるお城は?

かつて日本の海上交通は、日本海を通るルートが主要な航路でした。北前船による交易がさかんになるのは江戸時代以降ですが、それ以前も日本海は重要な交易のルートとして知られています。中でも秋田県は、奈良時代から海上交通の要所として重要な役割を果たしていました。お城は戦のためだけの施設ではありません。今回は奈良時代から戦国時代、そして江戸時代へと、秋田の歴史が詰まった3つのお城を紹介します。

■久保田城(日本100名城)

久保田城、本丸表門
復元された本丸表門

久保田城は、慶長9年(1604)に佐竹義宣(さたけよしのぶ)によって築かれた平山城です。関ヶ原の戦い以降の「慶長の築城ラッシュ」に築城された城にしてはめずらしく、石垣ではなく土塁で築かれた土づくりの城で、天守も造られませんでした。

これには「関東を拠点にしていた佐竹氏は石垣普請よりも土塁普請が得意だったから」であるとか、「常陸国から出羽秋田への国替えにともなう混乱で築城の規模が定まらなかったため」など、さまざまな説があります。

佐竹氏はもともと常陸国五十四万石を治めていました。ですが、慶長7年(1602)出羽秋田二十万石に転封となります。佐竹氏が国替えになったのは、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に味方をしなかったためでした。

のちに徳川家康から「誠の律儀人」と評された佐竹義宣は、非常に義理堅い人物でした。彼は、かつて石田三成から受けた恩を忘れず、彼が率いる西軍の不利になることを避けるため、東軍にも味方せず、かと言って西軍にも味方せず、とかたくなに中立の立場をとり続けました。そのため、戦後は常陸国五十四万石から出羽秋田二十万石への転封を命じられてしまいます。

その際、本来取り潰しになっていてもおかしくない状況であるにもかかわらず、情けをかけられたことに感じ入り、「江戸幕府に敵対する意志がない」ことを示すため、あえて天守や石垣を造らなかったのだ、とも言われてます。

とはいえ、久保田城は天守や石垣を持たない「丸裸の城」ではありませんでした。久保田城はそれらの防御施設を築かなかった代わりに、新しく整備した「城下町」の町割を工夫することで、城の守りを強固なものにしました。久保田城を訪れた際は、ぜひ城だけでなく城下町も歩いてみましょう。

所在地:〒010ー0876 秋田県秋田市千秋公園1-39
アクセス:JR奥羽本線・秋田新幹線「秋田」駅から徒歩約15分
楽しみ方:城跡散策。あわせて城下町も訪れたい。


■脇本城(続日本100名城)

脇本城
丘陵地に築かれた脇本城

脇本城は、日本海に面した男鹿半島の付け根に位置する山城です。築城の年代は15世紀頃とされ、安東愛季(あんどうちかすえ)が、元亀・天正年間(1570〜1592)前半に大規模な改修を行ったことがわかっています。安東氏は東北はえぬきの名門。豊臣秀吉の時代に、安東愛季の次男、安東実季(あんどうさねすえ)が「秋田城介(あきたじょうのすけ)」を称して、安東氏から秋田氏に改姓しました。

脇本城が築かれたのは、生鼻崎(おいばなざき)と呼ばれる標高100mほどの丘陵地。脇本城は、日本海を臨む丘陵全体を山城として造成しています。敷地面積は約150ha。東北最大級の規模を誇ります。

土塁を重視する東北地方の城らしく、現在も大規模な土塁や空堀、竪堀が良好な状態で残っています。また城主の居館があったとされる内館地区には、かつて脇本城が敵に攻め込まれた際に当時の城主が「金の茶釜」を埋めたとされる伝説のある井戸の跡も残されており、お宝目当てに夜な夜な井戸を掘り返す人もいたのだとか。

脇本城は、父、愛季による大規模な改修から間もなく、秋田実季の時代に廃城となりました。時期については、実季が本拠地を脇本城から湊城へ移したとされる天正17年(1589)と、佐竹氏の出羽秋田転封と入れ替わりに常陸国宍戸へ国替えになった慶長7年(1602)という説があります。

当時、秋田氏の所領の石高は、実質二十万石近かったとされていますが、実季は秀吉に対して「五万石である」とうその申告をしていました。そのため国替えになる際、申告通り「五万石」の常陸国宍戸の領地を与えられたと言われています。

「律儀」で知られた佐竹義宣のエピソードと比べると、なんだかうっかりしているように思える秋田氏ですが、出羽を治めた手腕はなかなかのもの。日本海に臨む広大な城跡を訪れれば、脇本城が海上交通の要所として重要な場所であったことがわかります。廃城後も地元の人々の手で大切に守られてきた遺構や伝説が、脇本城と秋田氏の絆を今日に伝えています。

所在地:〒010-0342  秋田県男鹿市脇本脇本字七沢外
アクセス:JR男鹿線「脇本」駅から徒歩約35分
楽しみ方:ふもとから頂上の城跡を目指してトレッキング。敷地探索には縄張図の入手がおすすめ。


■秋田城(続日本100名城)

秋田城
平成9年(1997)に復元・再築された日本最北の瓦葺きの東門と築地塀

秋田城は、大和政権が東北に築いた「城柵(じょうさく)」のひとつ。大和政権が東北支配のために築いた施設です。特に秋田城は数ある城柵の中で最北に位置しており、当時の大和朝廷の支配が現在の秋田市にまで及んでいた証拠として、歴史的な価値が高い史跡です。

秋田城が初めて文献に登場するのは、天平5年(733)の「続日本紀(しょくにほんぎ)」の記述です。当時は「出羽柵(いではのき)」と記されていましたが、天平宝字4年(760)の記録では「阿支太(あきた)城」と記され、この頃に秋田城と改称されたと考えられています。秋田城は10世紀後半以降、機能が失われてしまいますが、秋田城を統治する「秋田城介(あきたじょうのすけ)」の官職は武門の名誉とされ、後世に伝えられていきました。

秋田城は、数ある城柵の中でも、特別な役目を担っていました。本来、城柵は関東や中部地方から移住させた「柵戸(さくこ)」と呼ばれる人々や、大和政権の支配下に入った「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれる蝦夷の人々を管理し、徴税や交易を行う行政の機能を持っています。また、軍事機能も持っていたとされていますが、それ以上に、秋田城で重視されていたのは「外交」でした。

かつて、日本海を挟んだ現在の中国東北部には「渤海国(ぼっかいこく)」が存在し、秋田城は渤海国との交流の窓口となっていました。平成9年(1997)に復元された外郭東門は、秋田城創建時の姿を再現しています。瓦葺きの建築物は大和政権の権威を示すものであり、秋田城に用いられた瓦葺き屋根が古代日本最北のものであったことがわかっています。

そんな秋田城ですが、実は「古代水洗トイレ」があり、復元されています。そして、この「古代水洗トイレ」の発掘で、日常的にブタを食べる人々が感染する「有鉤条虫」という寄生虫の卵が発見されたことにより、トイレを使用したのはブタを食べる習慣のあった渤海国の人ではないかと推察されています。秋田城は大和政権が渤海国からの使者を饗応し、交流を持つための重要な「外交施設」であった可能性が明らかになったのです。発掘と復元から読み解く古代の歴史。秋田城にはさまざまな物語が秘められています。

所在地:〒011-0939  秋田県秋田市寺内大畑
アクセス:JR奥羽本線「秋田」駅から、秋田中央交通バス通町・寺内経由将軍野線などで約20分、「秋田城跡歴史資料館前」下車、徒歩約3分。公園から資料館まで徒歩約5分。
楽しみ方:まずは城跡の散策。隣接する秋田城跡歴史資料館を見学すれば、さらに深い発見ができるはず。

執筆/城びと編集部

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