城に眠る伝説と謎 第1夜 【佐賀城】化け猫になった龍造寺家の怨念

全国のお城に伝わる伝説や奇譚を取り上げ、歴史をひもとく「城に眠る伝説と謎」。第1夜は、佐賀城に伝わる化け猫になった龍造寺家の怨念に迫ります。実権掌握に端を発した、化け猫伝説とは・・・。



鍋島家を呪う化け猫

花嵯峨猫魔稗史、化け猫伝説、歌舞伎、佐賀城
鍋島家の化け猫伝説は嘉永年間に歌舞伎『花嵯峨猫魔稗史』として上演されたが、佐賀藩の抗議により公演中止となった(個人蔵)

肥前佐賀城(佐賀市)は初代藩主・鍋島勝茂によって江戸時代のはじめに築城が開始された佐賀藩主・鍋島家の居城である。なお、この城は龍造寺家の居城・村中(龍造寺)城を改築、拡充したもので、龍造寺時代には幾度となく攻防戦の舞台となった。

ところで、佐賀城と鍋島家に関しては、化け猫騒動などというオカルトめいた御家騒動が取り沙汰されることが多い。その伝説は一般には──佐賀城内で龍造寺又七郎(又一郎)と囲碁を打っていた第2代藩主・鍋島光茂(勝茂の長男)が「待った!」「待たない!」で口論となった挙げ句、又七郎を斬り殺してしまう。実は、又七郎は鍋島直茂(勝茂の父)に家を乗っ取られた龍造寺家の子孫だったが、又七郎の老母は鍋島家に恨みを抱きつつ自害して果てた。その際、「私に代わって、鍋島家に祟って欲しい!」と言い残した老母の血を嘗めた飼い猫が化け猫となり、光茂を大いに苦しめたものの、忠臣の活躍でどうにか化け猫は退治された──といったストーリーで知られている。

佐賀城、鯱ノ門
佐賀城で唯一現存する鯱ノ門

化け猫伝説の影にあった龍造寺家の悲劇

さて、又七郎が実在の人物であるか否かはともかく、16世紀末期以降に豊臣秀吉、徳川家康が鍋島家を肥前東部(佐賀県)の大名と認めるに際して、次のような出来事があった。もともと、肥前東部の戦国大名は龍造寺隆信だったが、その隆信は天正12年(1584)の合戦で討死する。やがて、龍造寺家の一族、重臣は隆信の義兄・鍋島直茂を支持するようになった。そして、遂には病弱を理由に龍造寺政家(隆信の子)が隠居し、代わって直茂・勝茂父子が秀吉や家康によって大名と認められたのである。あまりのなりゆきに、直茂の養子になっていた若年の龍造寺高房(政家の子)は慶長12年(1607)に妻を殺害した上で自害し、1か月後に政家も病没した。のちに、高房の長男・伯庵らが訴え出たものの、江戸幕府は龍造寺家再興を認めてはいない。これより先、佐賀では、「白装束を身にまとった高房公の亡霊が、愛馬に跨がって城下に出没する……」などという真偽不明の噂話が広まった。そこで、時の藩主・勝茂は城下に天祐寺を建立して、高房ら龍造寺家歴代を手厚く弔ったと伝えられている。

要するに、龍造寺家の没落、鍋島家の権力掌握という段階で因縁めいたことが少なからずあったのだが、高房の亡霊、化け猫の出現に加えて、奇抜な設定──老母が猫に復讐を依頼する、老母の血を嘗めた猫が化け猫となる、化け猫が藩主の愛妾に取りつく──が大いに受け、以後も類似したストーリーの講談、新作歌舞伎が発表されている。

また、佐賀県白石町には先の忠臣の子孫が建立したという猫塚(猫大明神)があった。現存する秀林寺(同町)の猫塚は明治維新後に再建されたもので、石に化け猫をモチーフとしたかのような「七尾の猫」が彫られている。

鍋島直茂肖像、化け猫伝説
鍋島直茂肖像(鍋島報效会所蔵)。鍋島氏の化け猫伝説は直茂の実権掌握に端を発するものだった


執筆者/川口素生
1961年、岡山県生まれ。戦国、江戸時代を中心に研究する歴史研究家。一般向け歴史書籍の執筆を多く手がけている。主著に『戦国名軍師列伝』(PHP文庫)、『大いなる謎 平清盛』(PHP新書)など。

写真提供/クレジットがある画像以外はかみゆ歴史編集部

※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています

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