萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第5回 浮城と呼ばれた、日本一の“駅近”城 三原城

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北西から望む三原城の天守台。天守は築かれず、隅櫓が築かれていたという

本丸を新幹線が貫通する城

広島県三原市にある三原城は、日本でもっとも駅近の城です。なぜなら、本丸を山陽新幹線の線路が貫通し、本丸にJR三原駅がつくられているからです。駅構内には切符売り場を示す案内板の隣に天守台入口を示す案内板があるほどで、“駅に近い”というより“駅と共存している”が正しい表現といえます。三原城の天守台は、まるで駅の屋上広場のように駅の中に存在しています。

「破壊された残念な城」というイメージを持つかもしれません。しかし、ぜひ改札を出て天守台の周りをぐるりと1周しながら石垣を眺めてみてください。思いのほか立派な石垣が広範囲に残っていて驚くはずです。開発の波に飲まれず、よくぞここまで残ってくれたものだと感激します。

小早川隆景により三原城の築城が開始されたのは、永禄10(1567)年のこと。天正10(1582)年には、新高山城(広島県三原市)から本拠を移したとみられます。その後、隆景は筑前に移りましたが、文禄4(1595)年に家督を譲ると三原に戻り、三原城と城下町づくりを再開しました。現在見られる石垣は、文禄4年から隆景が亡くなる慶長2(1597)年頃のものと思われます。

隆景没後は毛利氏の直轄領となった後、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦後には広島城(広島県広島市)を本拠とした福島正則の領地となって子の福島正之が置かれました。福島氏の改易後は浅野氏が入り、筆頭家老の浅野忠吉が城代に。三原城は広島城の支城でありながら一国一城令後も存続が認められ、明治維新まで存続したのでした。

天守台をよく見ると、西面と東面で石垣の積み方が違うことに気づくでしょう。西面は小早川時代、東面は福島時代に積まれたものと考えられます。高さ約15メートルに及ぶ天守台の石垣は、積み方の技術も高度。西面の石垣が小早川時代の石垣であれば、水堀から直接積み上がる石垣としては最古級の技術といえます。三原城は、小早川氏と福島氏、そして江戸時代に手を入れた浅野氏と、3代の技術が見られる貴重な城でもあるのです。

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南西から望む天守台。後方に見える山は桜山城で、小早川隆景が三原城の詰城として築いたとされる。戦国期の城の遺構が残るほか、幕末に砲台が置かれた時のものと思われる遺構もある

浮城の面影を残す、舟入櫓や岩礁

三原城はかつて、浮城と呼ばれていました。天守台の上に立ってもその理由はピンときませんが、地図を広げてみるとその理由がわかります。周辺を少し歩いてみれば、さらに納得。徒歩5分ほどのところには三原港があるように、三原は瀬戸内海に面した地なのです。三原城は、沼田川河口の大島と小島をつないで築かれた海城で、満潮時には海に浮かんで見えたといわれます。

三原は古くから、瀬戸内海と山陽道の両方を抑える地でした。隆景は水軍の基地、そして瀬戸内防衛の拠点として、多くの船が往来する瀬戸内海を抑えるために三原城を築いたようです。

浮城の面影を残すのが、刎跡や舟入櫓跡、中門跡です。とりわけ舟入櫓跡は、今にも舟が入ってきそうな情緒があります。船入櫓の南東隅には、なんと岩礁も残っています。櫓台の石垣も圧巻です。

城の東西に形成された城下町は、隆景によって天正10年頃から東側が整備され、後に正之が西町の町割を行なったようです。どちらも山陽道が通り、現在でも小路が残ります。

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奥の高石垣が船入櫓跡。隅角部には岩礁も残る。櫓跡は三原城歴史公園となっている

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。




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