戦国武将と城 徳川家康と城 第3回 | 家康入城以前の江戸はさびれた漁村だったのか

江戸を選んだのは家康か秀吉か


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現在の小田原城復元天守(近世小田原城本丸)

天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで戦国大名北条氏が滅ぼされたとき、その遺領が徳川家康に与えられることになった。北条氏の本拠の城は小田原城で、小田原城は最終的には無血開城の形だったため、城の建物などはそのまま焼けずに残っていた。

このような場合、ふつうは、あとから入る武将はそのまま小田原城を居城とすることが多い。ところが、このとき、家康は駿府城から小田原城ではなく、新たに武蔵の江戸城を築いて移っているのである。

そのいきさつについて、通説は、徳川幕府が編纂した正史である『徳川実紀』の「東照宮御実紀附録巻六」によって、家康が「このまま小田原城を本拠としたい」といったのに対し、秀吉が江戸を勧めたので、家康もそれに従ったとされている。つまり、江戸選択は秀吉の炯眼(けいがん)だという解釈で、さらにはその理由について、「家康を遠くにやりたかったのだ」といわれることもある。

ところが、以前、水江漣子(れんこ)氏が著わした『家康入国』で、家康の家臣松平家忠の日記『家忠日記』を検討され、それ以前に家康が江戸に関心をもっていたことを明らかにし、その後、岡野友彦氏の『家康はなぜ江戸を選んだか』においても、中世以来の関東における水陸交通の要衝である江戸に注目していたとする。

家康の創業期の史料の信憑性

家康は本当は小田原城を居城としたかったのに、秀吉の勧めでしかたなく江戸城に移っていったとする論調のベースとなっているのが、「江戸は未開の原野だった」という史料の存在である。たとえば、よく引き合いに出されるのが、松井松平家の家老石川正西(しょうさい)が万治3年(1660)に書いた『石川正西聞見集(ぶんけんしゅう)』で、そこに、江戸は茅葺きの家が100あるかないかだったという書かれ方をしており、また、兵学者大道寺友山が著わした『岩淵夜話』にも、江戸は葦原が武蔵野に続いていたといった描写がされており、家康は文字通りゼロから城づくり、町づくりにかからなければならなかったとする通説ができあがることにもなった。では、それらは本当のことだったのだろうか。

北条氏の支城として発展していた江戸

それら記述が全くの嘘というわけではないが、かなり誇張された書き方になっていることはたしかである。どうしても、江戸城というと太田道灌の江戸城が有名で、道灌死後、江戸城の存在が忘れられた形となっているが、実は、戦国時代、江戸城は北条氏の小田原城の有力支城として、北条氏の重臣遠山氏が城代をつとめており、直景―綱景―政景―直景の4代が居城していた。戦国大名北条氏の重要拠点の一つで、城下町もそれなりに発達していたのである。「江戸は砦のある漁村」といったイメージはこの際払拭する必要があるのではなかろうか。前述岡野友彦氏が指摘されたように、江戸は浅草からはじまる利根川・常陸川水系と、品川からはじまる太平洋海運とを結ぶ結節点に位置していたわけで、江戸が平安時代から中世を通じてある程度発達していた点をみておく必要があるように思われる。

家康の江戸城築城と町づくりはこうした前提の上にはじめられたのである。

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現在の江戸城 富士見櫓(現存)


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小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。

著書『戦国武将の手紙を読む 浮びあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
  『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』(洋泉社、2016)ほか多数

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