戦国武将と城 徳川家康と城 第4回 | 家康はなぜ駿府城を隠居城に選んだのか

将軍職をたった2年で秀忠に譲ったわけ

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駿府城 追手門跡

徳川家康は慶長8年(1603)、念願の征夷大将軍に補任(ぶにん)された。若いころから源頼朝に私淑し、『吾妻鏡』を愛読書としてきた家康にとって晴れがましい瞬間だったと思われる。ふつうならば、せっかく手にした権力の座に死ぬまでついていたいと考えるところであろう。しかし家康は、たった2年で将軍の座を子の秀忠に譲っているのである。それはなぜなのだろうか。

関ケ原の戦いに勝ち、将軍になっても、大坂城に豊臣秀頼がいた。大坂方はもちろん、世間では、「家康が将軍になったのは、豊臣秀頼が関白になるまでのつなぎ」というニュアンスで受けとめていた。家康は、そうした大坂方の期待を打ちくだくために将軍職をおりたのである。「将軍職は徳川家が世襲する。政権を豊臣家にもどすことはない」とする大坂方に対しての最後通牒ともいえるものだったのである。
そうなると、当然、「江戸城にいて将軍秀忠を後見すればよかったのではないか」という声があがってくる。では、家康はなぜ、隠居城として駿府城を築くことになったのだろうか。

「廓山和尚供奉記」から


このことを考えていく上でおもしろい史料がある。「廓山(かくざん)和尚供奉記(ぐぶき)」といって、駿府城の落成祝いにかけつけた江戸増上寺の僧観(かん)智(ち)国師と家康との会話が収録されているもので、観智国師が「どうして駿府に城を築いたのですか」という質問に家康が5つの理由を述べている。

かいつまんでいうと、
①子どものころここに生活していて、思い出の地である。
②冬暖かい。
③米がおいしい。
④駿河は国堅固の地である。
⑤諸大名が江戸に行くのに遠まわりしないですむ。

この中で、本当の理由は④であろう。原文では、「南西に大井・安倍の瀑流あり。北東に箱根山・富士山の険あり。要害最も堅固なり」となっている。家康は、大御所になって、自分が希望すればどこにでも城を築くことができたのに、駿府を選んだのは、駿府城を大坂方に対する前衛とするところにあったことがわかる。

駿府城の大手門は西を向いている


そのことは大御所時代の駿府城の縄張からもうかがうことができる。江戸との往来だけを考えれば、大手門は東、江戸の方に開けられるところであるが、駿府城の大手門(駿府城では追手門と書く)は西側にある。しかも、西側の方に石垣と堀の折れが多くみられるのである。

そして、もう一つ注目されるのが、このときの駿府城築城にあわせ、安倍川の流れを西につけかえ、藁科(わらしな)川を合流させ、大規模な堤防を築いていることである。通称薩摩土手とよばれているが、薩摩藩島津氏が普請を主に請け負ったといわれている。この土手は明らかに外郭土塁で、西に対する備えである。家康は、豊臣軍が東に向かって東海道を攻め上ってきたときのことを想定し、江戸城の前衛として築かせたことがわかる。

現在、そのときの天守台が発掘調査によって姿をあらわしはじめている。

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薩摩土手

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小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。

著書『戦国武将の手紙を読む 浮びあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
  『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』(洋泉社、2016)ほか多数

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