戦国武将と城 徳川家康と城 第2回 | 浜松から駿府へ城を移したわけ

方角と日取りにこだわった家康

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浜松城。天守門と天守

天正10年(1582)の武田氏滅亡により、それまでの遠江・三河に加え駿河を手にした家康は、その直後、本能寺の変で大混乱に陥った甲斐・信濃も手に入れ、5ヵ国を支配する大々名に成長した。

しかし、その後もしばらくは浜松城を本拠としていたのである。2年後の天正12年には羽柴秀吉と小牧・長久手の戦いをくりひろげ、よくいわれるように、局地戦では家康が勝ちながら、大局的には秀吉に屈服する形の講和が結ばれている。その証拠が、家康の二男於義丸を秀吉のもとに人質として出していることである。秀吉の方では、家康の気持ちを察し、形だけ養子とし、秀吉の秀の一字を与えて秀康と名乗らせてはいるが、秀吉側が圧倒的に有利となったことはまちがいない。

そのころから家康は城を移すことを考えており、翌13年(1585)7月19日、城地候補と考えていた駿府に入り、選地を行っている。駿府は周知のように戦国大名今川氏累代の居館があったところで、家康自身も8歳から19歳まで今川義元の「人質」として暮らしたところで、なじみの場所であり、また、「海道一の弓取り」といわれた戦国武将今川義元の城地を受けつぐことの意味を考えた選地と思われる。

築城工事は翌14年から本格化し、9月11日が吉日ということで、まだ完成していない駿府城に移る仮の儀式が行われている。このときのこととして、『御当家紀年録』という史料に興味深いエピソードが見える。

このとき、家康は易者に日を選ばせ、9月11日が吉日ということで移動することになったわけであるが、易者はもう一つ重大な忠告をしている。「殿はそのまま東海道を東に駿府に向かってよいですが、息子秀忠様は、一度南に出、そこから東へ進み、駿府近くなってから北上して駿府に入った方がよろしい」といっているのである。何のことはない、平安時代の貴族がはまっていた「方違(かたたが)え」と同じである。家康は占筮(せんぜい)によって行動していたことがわかる。

移城は秀吉との距離をおくためか

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駿府城の東御門

ところで、このときの移城の理由について、従来の通説は、「秀吉から遠ざかりたい」、つまり、秀吉と距離をおくための移城だったというものである。

実は、このあたりは微妙で、この年の5月14日に、秀吉の妹旭姫(朝日姫とも)と家康の婚儀が浜松城で行われており、秀吉・家康の同盟が成っているのである。ところが、この時点で、家康の娘督姫が北条氏直に嫁いでおり、徳川・北条同盟も結ばれている状況だった。そのため、より北条領に近い駿府に城を移し、秀吉との距離を置こうとしたと解釈されたものと思われる。

では、実際のところはどうだったのだろうか。実はちょうどこのころから家康による五ヵ国支配が軌道に乗りはじめているのである。地図だけを見ていると、浜松は信濃に近いように感ずる。天竜川筋を北上すればそのまま信濃に行ける感じであるが、実際は、青崩峠または兵(ひょう)越(ごし)峠を越えなければならず、往復は簡単ではない。ましてや、甲斐はさらに遠い。

その点、駿府の地は、甲斐に近く、しかも武田信玄が駿河を支配していた時代、甲州往還という形でかなり整備されていたのである。三河・遠江・駿河三ヵ国だけであれば浜松城でよかったが、甲斐・信濃支配を視野に入れたとき、駿府城の方がよいと判断したものと思われる。もちろん、秀吉との距離をおきたいという意識も働いたかもしれないが、根本は、五ヵ国支配を効率よく進めるための移城だったと考えられる。

築城の模様は、家康の家臣松平家忠の『家忠日記』にくわしく記されており、天守を備え、また石垣を積んでいたことがわかる。ちなみに、浜松城址での発掘調査において、現時点では家康時代の石垣は見つかっていないので、天守・石垣という織豊系城郭の特徴が見られるのは五ヵ国時代の駿府城が最初である。

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小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。

著書『戦国武将の手紙を読む 浮びあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
  『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』(洋泉社、2016)ほか多数

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